物事の真実(レンコンなりの解釈)
セカンドライフを始めて慣れてきたレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階です。今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。今回は、秘境といわれる奥只見湖をリサーチします。秘境ならではの妄想が膨らみます。
奥只見湖
福島県南会津郡檜枝岐村(ひのえまたむら)と新潟県魚沼市に跨る只見川の最上流にあります。
奥只見ダムによって形成された人造湖で、銀山湖と呼ばれています。徳山ダムに次ぐ貯水容量を誇っています。
三島由紀夫は、只見湖ダムや湖をモチーフにした小説を執筆したり、只見湖を愛した開高健もいました。
湖の色は深い緑色で鉱石が採れるような気がしました。鉱山に見えてしまいました。
銀の鉱脈がありそうな気がします。妄想が膨らみます。
奥只見シルバーライン
新潟県魚沼市の上折立から奥只見ダム間の道路を指します。全長22.6㎞のうち18.1㎞をトンネルが占め、19本のトンネルから成っています。
公式の情報では、奥只見ダムの建設工事用道路として3年かけて建設され、難工事の末に完成しました。ダム完成後もしばらくは電源開発が所有していましたが、1969年に新潟県に譲渡され、1971年から一般車両に開放されたという謎のトンネル道路です。
急カーブ・急勾配・素堀部分・湧き水が随所にあり、トンネル内の道路は常に濡れており、外気温差で霧が立ち込めて前が見えにくくなり危険なドライブと感じるほどの秘境です。もう二度目は行かないかな~。怖くて。
上田銀山
1641年に百姓の源蔵が銀鉱を発見しました。幕府の大老酒井忠勝の命により銀山開発命令が高田藩に下されました。只見川上流は、あまりの秘境であったので隣の会津藩との国境未確定地域でしたが、銀鉱山の発見で両藩の国境は只見川中央と裁定されました。
本格的に採掘が行なわれたのは、1657 年~1681 年の高田藩経営の25 年間、1690 年~1705 年の幕府経営の16 年間、1850 年~1860年の山師・正田利右衛門の請負経営の11 年間の3期間です。
1681年に高田藩にお家騒動が起こり高田藩取り潰しとなったので、銀山経営が一時中止しました。
1689年に幕府は河村瑞賢を派遣して周辺調査をさせたところ、上田銀山のそばの只見川をはさんだ会津藩領に白峯(しらふ)銀山を発見しました。
上田銀山と白峯銀山を合わせて大福銀山と呼ばれました。両銀山を幕府直轄経営として河村瑞賢に経営を一任しました。
河村瑞賢は航路開拓や治水工事の指揮をしていましたので、この時期に得意なトンネル工事の技術で難工事といわれる奥只見シルバーラインの坑道を作ったと妄想します。
幕府直轄経営時代の銀産出量は、多い年で1,300㎏、少ない年で400㎏と大量に算出していました。
山師・正田利右衛門の時代の鉛産出量は、毎年38,000㎏でした。多い年は72,000㎏産出しました。坑道が地下に何本も作られていたとしても自然に納得できます。
しかし、1862年の採掘中に只見川の河床を掘り抜いてしまい、大量出水で閉山となりました。
奥只見ダム
電源開発株式会社が管理する発電用ダムで型式が重力式コンクリートダムです。堤高157mで日本一高い重力式コンクリートダムだそうです。
越後三山(八海山、中ノ岳、越後駒ケ岳)只見国定公園に指定されています。
1953年に工事着手し、1960年に竣工しました。
ダム水没地は、高田藩の銀山開発以降の集落が形成されており、38世帯が移転しました。
1954年に資材運搬用道路の建設をし、3年間をかけて奥只見シルバーラインを完成させたとの公式情報ですが、1689年に既に河村瑞賢により道路というか坑道は完成しております。この道路建設予算はどこに消えたのでしょうか?
また、ダムあるあるの情報ですが、水没前に岩盤を爆破して鉱物を全て採取した後に水没させて鉱山の歴史が消されています。
まあ妄想も含みますが・・・。