
物事の真実(レンコンなりの解釈)
セカンドライフを始めて慣れてきたレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階です。今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。今回は、石清水八幡宮をリサーチします。
石清水八幡宮

京都府八幡市八幡高坊にある神社です。旧称は、男山八幡宮です。
宇佐神宮・鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮の1つです。本殿を含む建築物10棟が国宝です。
平安時代前期(860年)に宇佐神宮から勧請した神社で、男山の山上に鎮座されました。男山は、桂川、宇治川、木津川の合流点に位置しています。
平安京の東北側の鬼門としての延暦寺に対して南西側の裏鬼門として石清水八幡宮が位置づけられました。伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟です。
源義家は、当社にて7歳で元服(はっ早すぎますね~)し、「八幡太郎義家」と名乗りました。
ご祭神
中御前 応神天皇(誉田別尊(ほんだわけのみこと))
西御前 比咩大神(多紀理毘賣命・市寸島姫命・多岐津毘賣命)
宗像三女神のたぎりひめのみこと・いちきしまひめのみこと・たぎつひめのみこと
東御前 神功皇后(息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと))
ご神徳
国家鎮護、厄除開運・必勝、交通安全、安産、病気平癒

高良神社
石清水八幡宮の麓に鎮座する神社です。兼好法師の徒然草の一説に仁和寺の和尚が石清水八幡宮を詣でるつもりで高良神社を石清水八幡宮と間違えて参拝を済ませて山頂に登らずに帰ってしまったというエピソードがあります。
頓宮殿(とんぐうでん)

立派な宮殿と神社を参拝して石清水八幡宮と間違えて満足して帰るのもわかる気がします。

三ノ鳥居
表参道を上っていくとあります。

一ツ石
勝負石とも呼ばれています。また、「お百度石」とも呼ばれ、この石が百度参り・千度参りの起点になっていたことに由来するといわれています。
鎌倉時代の蒙古襲来の折には、人々が一ッ石と本殿を往復し「道俗千度参」を奉修したといわれています。

本殿
石清水八幡宮の本殿は、貞観元年(859年)清和天皇の勅命により建立された、六宇の宝殿からなる独特な「八幡造り(はちまんづくり)」と呼ばれる社殿です。
現在の社殿は寛永11年(1634年)徳川3代将軍 家光の修造によるものです。

本殿の向かって右に鎮座する岩がなぜか気になりました。

織田信長が寄進したといわれている築地塀といいます。熱田神宮にある信長塀と同じです。

校倉
奈良の正倉院の高床式倉庫(国宝)と比較するとサイズは小ぶりですが、同じデザインです。江戸時代中期に建てられたもので、京都府指定文化財です。

住吉社(重要文化財)
住吉社は住吉三神(すみよしさんじん)と言われる表筒男命(うわづつのみこと)・中筒男命(なかづつのみこと)・底筒男命(そこづつのみこと)を祀っています。日本神話では、イザナギが黄泉の国から戻り、禊(みそぎ)を行いました。瀬の深い場所で底筒之男神、瀬の中間で中筒之男神、瀬の浅い場所で上筒之男神が生まれました。「日本書紀」によると第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后(じんぐうこうごう)が熊襲(くまそ)征伐を行った際、神功皇后に住吉三神から神託があり、新羅(しらぎ)に出航しましたが、戦わずして新羅・高麗(こうらい)・百済(くだら)の三韓征伐(さんかんせいばつ)を成し遂げたとも言われています。

北総門です。他に東総門と西総門があります。

エジソン記念碑
1879年にエジソンは、最初の白熱電球を発明しましたが、もっと誰もが気軽に使うことができる電球はできないものかとさらに研究を続けました。試行錯誤の研究を進める中、ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、その骨を使って電球を試作してみました。するとその結果、電球の寿命は飛躍的に延びました。その扇子の骨こそが竹であったのです。竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに最適であったのです。エジソンはさらに実験を繰り返し、最も長持ちのする最高の竹を発見します。その竹こそが京都・男山周辺の真竹だったのです。この竹を使用した電球は何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。こういった背景からエジソン記念碑が建てられました。

男山の竹林です。

石清水社
ご祭神は、天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)で造化三神の中心で創造神です。「石清水」は、古くからの霊泉の名前で八幡神の鎮座の前に「石清水寺」という山寺があったという伝承があります。

石清水井
石造りの鳥居は、1636年に寄進されており、境内に完全な形で残る最古のものです。
八幡の昔話 戌の日の始まりは「岩田帯」
岩田は綿の産地でした。ある日高貴なお方が、たくさんの供を従えて岩田を通られました。急に産気づかれて村人は小屋を開けて上等な綿を敷き詰めて寝かせました。その後元気な赤子の産声が聞こえました。珍しいほどの安産でした。
身ごもった人が5ヶ月になると戌の日に神社にお参りして安産にあやかれるようにお腹に布をまきます。この習慣は、岩田帯が始まりです。
納豆の始まりは八幡太郎義家
1083年に奥州平定に向かう八幡太郎義家の軍勢が常陸国で宿営し、義家は水戸市郊外の一盛長者の屋敷に泊りました。この時、家来が馬の飼料に作った煮豆の残りを藁で包んでおいたら、煮豆は自然に発酵して糸を引くようになっていきました。ためしに家来が食べてみると(鋼の心臓ですね)、これが実にうまい事がわかりました。そこで義家に献じたところ、大変喜ばれました。以来、将軍に納めた豆という意味で“納豆”と名付けられたそうです。
義家の家来が命がけで食べた糸を引いた煮豆が日本の発酵食品文化の一品となる「納豆が爆誕」しました。あっぱれ日本人!!
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