
物事の真実(レンコンなりの解釈)
セカンドライフを始めて慣れてきたレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階です。今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。今回は、小茂田浜神社と万松院の歴史をリサーチします。
小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)
長崎県対馬市厳原に鎮座する神社です。対馬の西南海岸に位置しています。
元寇(文永の役)の際に、元・高麗連合軍が上陸した場所の佐須浦です。

1274年11月に900の艦船に分乗した3万人の元・高麗連合軍が佐須浦に襲来しました。合戦の火蓋が、切って落とされました。
守護代宗資国以下主従80騎で防戦に努めましたが、遂に全員が討ち死にしました。
資国公騎馬像

宗資国は、60歳を超える老兵でしたが勇敢に戦って終わりました。
小茂田浜神社には、資国以下、戦死した将士の霊を祀っています。

拝殿です。

本殿です。
そもそもの元寇の始まりは、モンゴル帝国第5代高弟のフビライ・ハンが高麗を服属させた後に日本に使者を送り、服属を求める外交交渉を始めます。
1268年にフビライ・ハンの書状は、高圧的な内容と日本への侵攻をほのめかすものでしたので、幕府を経由した朝廷は返信せずに無視をしていました。
対馬は、国境の最前線に位置しており、元・高麗軍の犠牲となりました。
倭寇
倭寇といえば、日本の海賊が周辺地域で海賊行為が行われたという印象操作があります。
しかし、「高麗史」によれば高麗が元寇以降もさかんに軍艦を建造しており、日本侵攻を繰り返すことになるのですが、これは、対馬を拠点とする倭寇討伐や日本侵略を口実に元や明の大軍が再び自国に長期駐留して横暴を極めることをおそれたあまりの「先走り」だとされています。
倭寇は、「前期倭寇」と「後期倭寇」に分けられます。
前期倭寇(14~15世紀初頭)
倭寇の勢力は、壱岐、対馬、九州北部の松浦地域が中心でした。
朝鮮半島や中国沿岸を襲撃、略奪する本格的な水軍集団でした。
元寇の戦乱で土地が荒廃し、海賊業で生計を立てる生き残りのための行動でした。
1404年に日本と明で国交が開かれて公式な貿易が開始されると、勢力は衰えて1400年代後半になると倭寇の姿は消えました。

後期倭寇(16世紀)
「倭」といいながら中国人(福建省、浙江省の商人)が主体で、略奪ではなく密貿易を活発に行っていました。後に、日本人やポルトガル人も関与した国際的な集団に発展しました。
万松院
長崎県対馬市厳原町にある天台宗の寺院です。万松院は、歴代の対馬藩主と正室や一族の墓所で、3つの御霊屋があり、上御霊屋は初代義智から32代義和までの藩主と正室、中御霊屋と下御霊屋には十代貞国の側室と童子の墓が並んでいます。
万松院の大杉です。樹齢1200年といわれています。

1615年2代藩主の宗義成が初代藩主の宗義智の供養のために宗氏の居館である金石屋形(金石城)の西側に建立しました。
金石城は、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)の際に築かれた清水山城の麓に位置する平城で宗氏の居城でした。
金石城の搦手門(からめてもん)

石垣に囲まれた大きな城です。
金石屋形を朝鮮通信使を迎えるために城郭に改築したといわれています。
朝鮮国王から贈られた三具足

朝鮮通信使の一行経路

朝鮮通信使は、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団です。そもそもの始まりは、室町幕府将軍(足利義満)からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼でした。その後、豊臣秀吉が天下統一したころは交流が盛んでしたが、朝鮮出兵以降日朝の国交が断絶して中断しました。
江戸時代になり、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診しました。再開にあたって対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介役となり、1607年に再開されました。

諫鼓(かんこ)です。領主に対して諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓です。
次回で対馬シリーズが終わります。
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