創造ライフ

創造的で自由な生活を目指して

MENU

真実の歴史妄想隊参上❣軍艦島のリサーチ

物事の真実(レンコンなりの解釈)

セカンドライフを始めて間もないレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階ですが、今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。世界遺産軍艦島のリサーチです。

世界遺産軍艦島に行きました。

大きさと名前の由縁

長崎半島から西に4.5km、三菱石炭鉱業㈱の主力炭鉱があった高島から南西に2.5km、長崎港から南西に18kmの沖合に位置する「端島(はしま)」です。

端島は、南北に480m、東西に160m、周囲1,200m,面積約65,000㎡という小さな海底炭鉱の島で、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並び、外観が軍艦に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。

 

今後は上陸できない可能性も

雨や台風により建物の崩壊が激しく、いつまで島に上陸できるかはわからないそうです。また、天気が良くて端島まで近づけても波が荒いと上陸できません。レンコンは、幸運にも上陸できました。上記写真は2022年10月現在の軍艦島の状況です。

 

軍艦島の歴史

1810年に石炭を発見し、1887年、深掘出身の渡辺元により、軍艦島で最初の竪坑である36mの「第一竪坑」が切り開かれました。1890年に三菱が、鍋島孫六郎から端島炭坑を10万円で買収し、高島の支坑として経営していくことになりました。

軍艦島は、閉山まで良質の石炭を産出し続けました。採掘された石炭は、福岡県北九州市の八幡製鉄所などの原料炭に使われました。

大正時代から昭和時代にかけ、軍艦島は最盛期を迎えました。1916年に建設された日本国内最古の鉄筋コンクリート(RC)造のアパート「30号棟」は、現在も残っています。

 

 

1941年、良質な強粘炭が採れることから年間生産41万1100tの最高出炭を記録。軍艦島は黄金期を迎えました。この頃の日本は戦争の連続で、国の近代化が推し進められている時で、石炭の採掘方法が変わり、最終的にはベルトコンベアを導入するなど機械化を進めていったのです。

 

危険な仕事のため、労働者の給与は2倍であったそうです。労働者は、落盤や浸水に加え、ガス爆発などの炭鉱事故と隣り合わせの中で作業をしていたのです。1939年には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34人を出しています。

 

1961年には、軍艦島での人口が5,259人になり、世界最大の人口密度(当時の東京の約9倍)となりました。これは世界一の記録で、今現在も破られていません。

 

 

軍艦島は、エネルギー革命で主要エネルギーの石炭が石油へ移り、石炭の産出量の減少から衰退の一途をたどりました。1972年に採掘終了、1974年1月15日に軍艦島は閉山しました。約100年続いた炭鉱は、終焉を迎えました。

端島海底炭鉱断面図からの妄想

この断面図から海底へのエレベーターは2機あり、1機は海底348.7mまでで、もう1機は高速で海底606mまで降下して作業場まで移動しているのがわかります。

大変過酷な労働ですね。

 

坑道の様子は以下のようです。

海底1,010mまで少なくとも8~9本の坑道があったと推測できます。

 

 

巨大な地下帝国の誕生です。

他の鉱山も同じような構造なんでしょうか?

トンネルを掘削した土はどこに置くのでしょうか。

土だけで新しい島ができてしまうと妄想します。