創造ライフ

創造的で自由な生活を目指して

MENU

神社伝説と歴史の謎:和多都美神社と対馬の歴史

物事の真実(レンコンなりの解釈)

セカンドライフを始めて慣れてきたレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階です。今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。今回は、和多都美神社と対馬の歴史をリサーチします。

和多都美神社(わたつみじんじゃ)

長崎県対馬市に鎮座する神社です。対馬市以前は、下県郡豊玉町でした。

神代の昔、豊玉彦命つまり大綿津見神(おおわたつみのかみ)が当地に宮殿を造り、海宮(わたづみのみや)と名付け、この地を「夫姫(おとひめ)」と呼ばれるようになりました。

ご祭神

彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)

ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子で山幸彦として知られています。

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

海神(わたつみ)の娘で、龍宮に住むとされていました。

山幸彦の神話は以下の過去記事を読んでください。

 

www.souzoulife.com

海幸彦と山幸彦の伝説は当地から生まれたとされています。

満潮になると、社殿の近くまで海水が満ちてきます。その光景は、まさに龍宮を連想させるもので、山幸彦と豊玉姫命を結び付けた縁結びの井戸「玉ノ井」や満珠瀬、干珠瀬の伝説があります。

波良波神社(はらはじんじゃ)

ご祭神

豊玉彦命(大綿津見神)

当地を「夫姫」と名付けて「龍宮」という宮殿を築いたと伝えられています。

濱殿御子神社(はまどのみこじんじゃ)

ご祭神

彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)右の社

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)左の社

ご本殿のご祭神と同じですが、別の場所に鎮座していた社が当神社の境内社となりました。

玉の井

豊玉姫命の侍女が水を汲むために井戸を覗いたところ、美男子が水面に映し出されました。侍女は、豊玉姫命にそれを伝えるとその美男子に恋をして、父・豊玉彦命に頼み入れて海宮に招き入れて丁重にもてなしました。

その後、二柱の神様は結ばれ、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が生まれたと伝えられています。

亀甲石

当神社を守護する阿曇氏の長岡家は、対馬卜部でした。亀甲石は、その亀卜の神事が上代より行われた場所と伝えられています。

磯良恵比寿(いそらえびす)

三柱鳥居に囲まれて鎮座するうろこ上の岩は、阿曇磯良のご神体として伝わる石です。満潮時には海の下に隠れます。

三柱鳥居は三位一体を表し、三つの要素が互いに支えあい一つの調和を構成します。つまり安定と調和を象徴しています。また、三方向に開かれた鳥居は多様な視点や方向からのアプローチを象徴し、開かれた心と多角的な思考を促すといわれています。

裏参道

拝観料を払って奥に進み原生林を通ると、豊玉姫命の御陵墓があります。

撮影禁止でしたが、レンコン自身過去最大の磐座への引力がありました。

対馬観光情報館で豊玉姫命の御陵墓を見つけて撮影ができましたので掲載します。

豊玉姫磐座

後ろにある大きな磐座は夫婦岩ですが、その夫婦岩への引力が強大で、どうしちゃったのかなー。

レンコンの過去世で関係していたのかと思われるようでした。

竜宮城で一緒に踊るだったのか、または食事を作る女給だったのか、いやひょっとすると乙姫様だったのかと妄想がパンパンに膨れて、楽しいレンコンとなりました。

対馬の歴史

立地

対馬島は、九州本土から132㎞離れており、朝鮮半島へは49.5㎞の距離で、韓国人の住民も多く、店にはハングル語で表示されているのを見かけました。壱岐島は、地形がなだらかで高い山も少なく、おだやかでのんびりしたイメージでしたが、対馬島は高い山が多く、山も岩石が多く高低差もあり厳しいイメージで対照的でした。

立地的にも国境を守る場所ですから凛として厳しくなります。

白村江の戦いで負けてから唐や新羅の侵攻に備えて664年に対馬に防人が置かれました。

日本最古の銀山である「対馬銀山」は、674年に銀を朝廷に献上しています。大宝律令で有名な元号が大宝に定められた701年には金を献上しています。

遣唐使の航路として壱岐と対馬は寄港地になっていました。

元寇

モンゴル帝国と高麗による2回の日本侵攻です。1度目は、1274年の文永の役、2度目は、1281年の弘安の役です。

文永の役では、元軍25,000人、高麗軍8,000人、900隻の大船団で侵略してきました。それに対峙した対馬の宗氏80名で勇敢に立ち向かうも全員討死しました。対馬の女性や子供は、手の平に穴をあけられて船首に吊るされて日本軍からの弾除けのための人間の盾にされました。

壱岐も倒され、博多に上陸して激しい戦いになりました。大宰府まで追い込まれましたが、鎌倉武士の健闘で元軍は撤退しました.

弘安の役は、兵数4万人、1,000隻の船団に南宋からの10万人を出撃させましたが、1度目の経験から対策を考えて元軍の攻撃を防ぐことができ、神風が吹き荒れて撤退していきました。

元寇は、対馬と壱岐の大きな犠牲の上での経験から勝利しています。