物事の真実(レンコンなりの解釈)
セカンドライフを始めて慣れてきたレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階です。今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。今回は、吉備津神社・吉備津彦神社をリサーチします。
吉備津神社
岡山市北区吉備津にある備中国一之宮神社です。吉備中山をご神体としています。
御祭神
大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の第三皇子で五十狭芹彦命(いせさりひこのみこと)が元名です。崇神天皇10年に四道将軍の1人として山陽道に派遣されて吉備を平定しました。
四道将軍とは、日本列島の要衝地に派遣された大和朝廷の基盤を築いた4人の皇族将軍です。
北陸道は、大彦命(おおびこのみこと)
東海道は、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
山陽道は、吉備津彦命(きびつひこのみこと)
丹波国は、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)
吉備を統治していた温羅(うら)を倒した伝説が温羅を鬼と見立てて、鬼退治伝説として伝わっています。
昔吉備の国で村人はのんびりと暮らしていました。ある日、百済の国の王子「温羅」という恐ろしい人がやってきました。身長4mある乱暴者でした。巨人のことでしょうか。
行きかう船の積み荷を奪ったり、女子供を連れ去り監禁をして抗う村人を釜茹でされるので困っていたところ吉備津彦が派遣されて温羅と戦うことになりました。
弓矢での戦いとなり、お互いの矢が空中に衝突して落ちていました。中山主神はその矢を空中で奪取して、置いた矢置岩です。
吉備津彦の矢が温羅の目にささり、キジとなって逃げようとしたら、吉備津彦は鷹となって追いかけたところ、温羅は鯉となって川に飛び込んで逃げたが、吉備津彦は鵜に姿を変えて川に飛び込んで追いかけました。温羅はあきらめて捕まり、首をはねられました。
「うお~ん、うお~ん」と何年もほえ続けて人々を悩ませました。
困った吉備津彦命は、はねた首を御竈殿の下に埋めてしまいましたが、鳴りやみませんでした。
そんなある夜に吉備津彦の夢に温羅があらわれ、「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。」と告げられました。そのお告げどおりにすると唸り声が収まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源です。
鳴釜神事
体験しましたが、レンコンは神事に興味を持って集中していましたので、釜の音の記憶が薄いのですが、柔らかな音だったから記憶に残らなかったということですね。幸福が訪れると解釈しました。
本殿
国宝となっている吉備津神社の本殿は、日本で唯一の吉備津造り(比翼入母屋造)となっており、大変貴重な建造物です。
400m続く回廊は必見です。
回廊の彫刻も素晴らしいです。
レンコンの妄想
鬼退治伝説では、温羅は百済の王子で製鉄技術を持ち込んだとなっていますが、すでに製鉄技術は日本にあったと思いますので、温羅は日本に住んでいた先住民ではないかと妄想します。古代人は巨人のように大きかったのではないでしょうか。
新しい技術は帰化人がもたらしたものとの刷り込み教育にはちょっと異議ありといいたいです。
吉備津彦神社
岡山市北区一宮にある備前国一之宮です。
御祭神
大吉備津彦命(吉備津神社と同じ)
温羅の鬼退治伝説が桃太郎伝説となっています。
お供の犬、猿、雉は、吉備津彦の家来で以下の3名の名前から伝説となったともいわれています。
犬飼部犬飼健命(いぬかいべのいぬかいたけるのみこと)
猿飼部楽々森彦命(さるかいべのささきもりひこ)
鳥飼部留玉臣(とりかいべのとめたまおみ)
こんなにうまい事揃うものかどうかはわかりませんが、伝説ですからご容赦下さい。
相殿には、孝元天皇(8代天皇)開化天皇(9代天皇)崇神天皇(10代天皇)のほかに大吉備津彦命の親族、金山彦大神、大山咋大神が祀られています。
正面鳥居の真正面から夏至の日の出が神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」と言われています。
拝殿
本殿
1668年岡山藩主池田光政公が造営に着手しています。流麗な三間社流造りの神殿は飛鳥時代の社殿建築の粋がつくされており、荘厳華麗にして吉備国の神社建築が伝統とする“流造り”の正統な姿を示す社殿としても貴重な建築物とされています。
ご神木
樹齢1,000年以上とされている平安杉です。
祭文殿
祭典やご祈祷を行う御殿です。
靏島(つるしま)神社
ご祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后で大阪の住吉大社と同じです。航海安全の守護神です。
亀島もあるので鶴と亀が揃っています。ここでもカゴメ歌が関係しているのでしょうか。妄想が膨らみます。