物事の真実(レンコンなりの解釈)
セカンドライフを始めて間もないレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階ですが、今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。今回は、数回にわたる天才空海の考察と空海に関係の深いお寺のリサーチをしていきす。今年は、空海生誕1,250年になります。
空海ってどんな人❓
774年に誕生し、真言宗の開祖です。幼名は佐伯眞魚、父は佐伯直田公(さえきあたいだきみ)、母は阿刀の玉依御前(たまよりごぜん)で父方は地方豪族であり、修験道で産鉄民です。
眞魚が7歳の時の伝説が残っていますが、後日お話します。
書道家でもあり三筆の1人です。他に嵯峨天皇、橘逸勢がいます。
亡くなられた正当な竹内宿禰といわれていた竹内睦泰氏は、空海が一番字が上手であったとユーチューブで聞いたことがあります。
15歳で、母方の叔父である阿刀大足(あとのおおたり)に学び、18歳で官職になるための大学に入学するも仏教に興味を持ち、山岳修行に励みます。
24歳までに、儒教・道教・仏教を習得して「三教指帰」を著しました。そこで仏教が一番優れていると考え、仏教の修行に集中します。
その後は、漢文を含めた中国語やサンスクリット語も習得しています。
まさに天才ですね。
虚空蔵菩薩を大切にし、虚空蔵求聞持法を実践するために修行を続けて室戸岬の御厨人窟での修行中、口に明星が飛び込んできて悟りを開き、その後空海と名乗ることになりました。
ちなみに、虚空蔵求聞持法とは一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというものです。
実際に星が口に飛び込むのは無理ですが、そのように感じたということでしょうか。
私度僧として修行を重ねて803年31歳で20年間の長期留学僧として遣唐使で中国にわたります。同じ時期に最澄も遣唐使として中国にわたっています。
半年後に密教の国師である恵果和尚に師事して密教の勉学に励みます。
恵果和尚は、空海の才能を見極めて密教の奥義を全て教え込み、「遍照金剛」の称号を与えて後継者とされました。
全世界から密教の教えを求める多くの修行僧の中から選ばれていますので、飛びぬけた天才であったのでしょう。
20年中国にいる予定であったのを2年に短縮して日本に帰ってきました。
そんなことができたのですね。
すでに中国語もサンスクリット語も流暢に使いこなせたので短期間で習得できたということでしょう。
目的が明確であったので、準備も怠らなかったところが万人との違いがでるのでしょうね。備えは大事!
最澄との関係
最澄は、天台宗の開祖で伝教大師として知られ、比叡山延暦寺を建てて天台宗を開きました。エリート僧侶の最澄でしたが、皇族・貴族が空海が修行した密教に興味を示すようになったので、自身も真言密教を空海から経典を借りて学んでいました。
ある時最澄が「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」という真言密教の教典を貸してほしいという頼みを断りました。書物から得られる知識だけで真言密教を理解しようとした最澄に、空海は「密教は体験を通して理解するもの」と手紙に書いて送りました。
そこで、最澄の愛弟子である泰範を始め複数の弟子を空海の元で修行をさせました。
他の弟子は比叡山に戻ってきたのですが、泰範だけは戻ってきませんでした。
最澄が愛弟子泰範に向けた手紙が、国宝の久隔帖(きゅうかくじょう)です。
内容は、帰ってきてほしいというラブレターでした。ボーイズラブです。
ラブレターが国宝なんですね。国宝の見方が変わりました。
しかし、泰範は帰らず、空海の弟子になってしまいました。
空海は人を魅了する力があったのでしょう。
三密とは
コロナ対策で有名になった三密は、真言密教からきています。
身密・口密・意密で三密です。
身密とは、修行者は手に印を組んで宇宙の身振りを体現すること
口密とは、修行者はマントラを唱えて大日如来の化身となること
意密とは、修行者は瞑想をして大日如来の智慧そのものに合体すること
だそうです。
次回からは、空海に所縁のあるお寺のリサーチを含めて空海を考察していきます。
ご期待ください。