物事の真実(レンコンなりの解釈)
セカンドライフを始めて慣れてきたレンコンですが、歴史の真実を妄想し、調査している段階です。今現在のレンコンが信じる歴史の真実を不定期に発信したいと思います。よろしければレンコンの妄想にお付き合い下さい。今回は、松山城と伊予国の歴史、旧端出場水力発電所(別子銅山の隣)をリサーチします。
松山城
日本で12か所しか残っていない現存する天守閣は雄大で立派です。
創設者は、加藤嘉明です。1603年から築城し完成するも会津に転封され、蒲生氏郷の孫忠知が入国し二の丸の築造を完成するも嫡子がいなかったので、お家断絶となりました。その後は、松平定行が松山城15万石を封じられて明治維新まで続きました。
松山城の石垣は、「登り石垣」で全国最大規模を誇ります。花崗岩が使われて隅部は、算木積です。
算木積とは、石垣隅部の積み方で細長い石を使用して長辺と短辺を交互に積み上げる方法です。
本丸を囲う高石垣は高さ10mを越え、美しい曲線です。
松山城は、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。
湯築城跡
現在は道後公園になっていますが、湯築城は中世の伊予国の守護河野氏が南北朝から戦国期まで250年間に渡ってここを居城としていました。
源平合戦(1180~1185年)に河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力な御家人となり伊予国の統率権を得ました。
婚姻により村上水軍との関係強化や大友・毛利氏との関係強化もしていましたが、豊臣秀吉の四国攻めで小早川隆景に湯築城を明け渡しました。まもなく廃城となりました。その後松山城が中心になっていきます。イエズス会の宣教師といわれているルイス・フロイスの「日本史」に湯築城の城下町は大変栄えていたと書かれています。
重要文化財の湯釜です。
宝厳寺(一遍上人の誕生地)
鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたります。踊念仏で有名ですね。「南無阿弥陀仏」と唱えれば信心さえいらないという教えで民衆たちの心を掴み、多くの信者を獲得しました。踊りながら念仏を唱えるうちに高揚感が得られるのでしょうか。脳内ホルモンが、でまくりなんでしょうね。
室戸岬
柱状節理の岩や珍しい形の巨岩があります。
御蔵洞(御厨人窟)みくろど
閉まっていましたので中に入れませんでしたが、空海が修行の住居にしていた所です。防ぎょ屋根があります。修行中に口に明星が飛び込み、悟りを受けて自身を空海と名乗ったという伝説があります。
空海についてに過去記事はこちら
道後温泉
道後温泉はただいま改装中で残念ですが、屋根にたくさんの宝珠があります。瓦造りなのでしょうか。素晴らしい石工の技術ですね。
旧端出場水力発電所(別子銅山の隣)
令和5年3月28日にオープンしました。別子銅山の近代化を推進した大規模水力発電所です。別子銅山は、1691年から1973年まで住友が経営し、65万トンの銅を産出しています。海抜1,300mから水面下1,000mの海上遥か20㎞までの壮大なスケールの坑道があるようです。坑内の電気を賄うために端出場水力発電所は使用されました。
海底ケーブルの実物大レプリカです。
別子銅山は12月は閉館しています。運悪く12月に訪問しましたので、一部別子銅山の建物を写しました。
う~ん 見れなくて残念!